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グラオナの旅

094 お勉強の時間 ① 〜 三島由紀夫 「金閣寺」 〜

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                            光と闇の勢いを得て「時間」を飛ぶフェニックスのイメージ
2014/09/28

鳳凰の記述 〜 時間を飛ぶ翼 〜

私はまた、その屋根の頂きに、永い歳月を風雨にさらされてきた金銅の鳳凰を思った。
この神秘的な金色の鳥は、時もつくらず、羽ばたきもせず、
自分が鳥であることを忘れているに違いなかった。
しかし、それが飛ばないように見えるのはまちがいだ。
ほかの鳥が空間を飛ぶのに、この金の鳳凰はかがやく翼をあげて、
永遠に、時間の中を飛んでいるのだ。
時間がその翼を打つ。翼を打って後方に流れていく。
飛んでいるためには、鳳凰はただ不動の姿で、眼を怒らせ、翼を高くかかげ、
屋羽根をひるがえし、いかめしい金色の双の脚を、
しっかと踏んばっていればよかったのだ。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

※ 掲載された画像、gif 画はネット上にあったモノをこちらで改造
   もしくはそのまま掲載しております
 ただし、最下部の建築プロジェクトの画像には、加工は加えておりません。


色彩が持つイメージってのは結構大事です(「金鳥」のCMをイメージしないように♡)
青を凍った冷たいイメージ。赤は燃え上がる熱いイメージ。

次元というのものには、必ず「時間」という概念(性質)がくっついてきます。
それがないのは0次元だけ。
点です。点には単位がありません。
長さも広がりもありません。大きさも量もありません。
進むべき「方向」もありません。
よって、常に「動く」性質を持った「時間」というものは、生きる余地が全くないのです。
つまりこの次元に「時間」は存在しません。

次元というものを順番にまとめてみましょう。
 
点  ー0次元 ー 単位なし  Xの0乗です。 Xにどんな値を代入しても同じ。ただの「1」
線  ー1次元 ー 単位はm    Xの1乗です。 Xに代入される値によって「長さ」がきまります。
面  ー2次元 ー 単位は㎡    Xの2乗です。   Xに代入される値によって「面積」がきまります。
立体 ー3次元 ー 単位は㎥    Xの3乗です。 Xに代入される値によって「体積」がきまります。

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  座標に浮遊する「点」「線」的に繋がり、「面」を形成し、やがて「立体」となっていく、「時間」の表現をイメージ

では「時間」は? どのように表すんでしょう?

「時間」というものには、質量がありません。
だから物理学の世界では、「t」という記号をつかって、「s」という単位を使って、
その他の次元と同じ「物理量」に置き換えて計算します。

しかし、
この「時間」という奴は、
完全に質量を持たない世界0次元(「点」の世界)以外の次元には必ず存在します。
質量を持たない「時間」は「質量」のある世界でしか生きられません。
なぜなら、質量の「変化そのもの」こそ「時間」の正体であり、
「時間」を記述する唯一の方法です。

「線」が伸びていく(短くなっていく)その「過程」こそ「時間」です。
「面」が広がっていく(狭くなっていく)その「過程」こそ「時間」です。
「立体」が変形していくその「過程」こそ「時間」です。

しかし、この「時間」というモノを、各次元から切り離し取り去ってしまうと、
そこには、完全に静止凍結した純粋理想的な「形」だけが残ります。

※ この世に「完全」な点、線、面、立体は存在しません。
 鉛筆で紙に黒い点を打ったとしましょう。
 それは、普通に眺めれば「点」に見えるでしょうが、
 虫眼鏡で拡大して見れば、広がりのある「面」に見えます。
 電子顕微鏡でさらに拡大して見れば、降り積もった鉛筆の粉が見えます。
 つまり「厚み」を持った「立体」です。
 さらに言うなら、この粉は時間が経過すれば、風化摩耗してその体積を現象させてしまいます。
 我々がどんなに正確で精度の高い何らかの技術を用いても
「完全」なる点、線、面、立体を造りだす事は不可能なんです(コンピュータの仮想世界を覗いて)
 その現実には存在しない「完全」なる点、線、面、立体、はては三角形や立方体なんかの事を
 プラトンは「イデア」と言いました。(「ティマイオス」参照)


   この静止凍結した純粋な「形(イデア)」にという色を。
   そして、この「形」に息を吹き込み、
   内燃機関のような熱い「動力」を与える「時間」にという色を。
   青の鳳凰は空間を飛び赤の鳳凰は時間を飛ぶ(gif 画は少し時間を「だぶらせた」イメージに改造)


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青の鳳凰                    赤の鳳凰

この宇宙では、両者が分離することは決してありません。
分離した瞬間に、開闢以来のインフレーション(広がり)がストップし、
宇宙は凍りついてしまうからです。

しかし、この主人公は、
この金閣に鎮座する鳳凰は、
作り物の動かない鳥であるからこそ、
逆に「時間」を「永遠」に「飛ぶ=渡る」ことができるのだ、
という逆説的な表現をしています。
いや、「感覚」を抱いているといったほうがいいかもしれません。

これは「禅問答」みたいな話ですが、
上記の話を踏まえて、思いつく限りのことを箇条書きにして推移をまとめてみました。

それは観念上(あくまで人間の頭の中のイメージにおいて)

・  初めから「時間」を与えられなかった「鳥」であるから(成長しない)

・  時間から引き離された「鳥」であるから(年をとらない)

・  永遠の「形」を与えられた「鳥」であるから(永久に変化しない)
     ↓
       純粋な「立体=形」となる。
         ↓
・「夢=イデア=理想形」の「鳥」であるから(現実には存在しない夢の鳥)
             ↓  
                                              究極形態を目指して
                 ↓
・「死なない鳥=不死鳥」であるから(生命の理想「不老不死」)

universe-architecture-3d-printed-house-1.jpg universe-architecture-3d-printed-house-3.jpg universe-architecture-3d-printed-house-2.jpg
  メビウス:空間・時間の反転、逆説(パラドックス)のイメージ(Janjaap Ruijssenaars作 3Dプリンタにて作成) 

これは、主人公の内面世界を偏執的に描いた物語。

あんな作り物の鳥から、よくもまあ、これだけの想像を脹らませたもんだなあ〜
そんな事言ったら、ユネスコの世界遺産とか全部そうじゃん! 
というのが私の第一の感想です(笑)

しかし、
この主人公には下記(
2014/09/17 公開 「時間の齟齬 心の齟齬」)に記しましたように、
「吃り」というコンプレックスがあります。

※ 彼は、通常の時間の流れを一直線に生きる事ができない人です。
   常にこの「吃り」が邪魔をするため、
   通常の人よりワンテンポ遅れた動作、通常の人より遅れた体験しかできない人です。
   いわば、体験そのものが「吃って」しまっているのです。


現実の金閣寺(鹿苑寺)は、(私も修学旅行の時に見ましたが)それほど美しくありません。
主人公も現実の金閣寺を見て、「ただの古い寺」という印象しか抱きませんでした。

彼は、その「吃り」というコンプレックから生み出した、独特のセンス(感覚)によって、
極度に洗練された姿、彼だけの別の「金閣寺」を描き出しました。

それは、幼い頃から父親に聞かされ続けた金閣寺(鹿苑寺)の話と、
己の頭の中で思い描いた「金閣寺」を混ぜ合わせて育て上げてきた「イメージ群」の「集積」です。

実はこの話、最終的に主人公は、金閣寺に火を放って燃やしてしまうんですが、
これは現実にあった事件なんだそうです。
三島さんはこの事件をモデルにして、この話を書いたとか。

現実の事件を起こした本人が、このような鬱屈した内面を持っていたかはわかりませんが、
彼が幼い頃から築き上げてきた、決して人には理解されないその独特な美意識では、
この金閣寺(鹿苑寺)を燃やす=この世から消し去ってしまう必要があったのでしょう。

それは、
目の前にある「ただの古い寺」をこの世から、
つまり現実の時間(クロノス)から葬り去り切り離すことで、
その名にふさわしい、彼が思い描いてきた彼だけの「金閣寺」を誕生させようとしたのです。
彼は、金閣寺を永遠の時間(アイオーン)へと追いやりました。

この辺りの話は、三島ファンの方には「知ってるよ」なんて言われそうですね(笑)

f6fd7141.gif 2d3c2bd9.gif 
一点」から紡ぎ出される数々の宇宙のイメージ                   球:同じところをグルグルのイメージ
012.gif M1SDVLc.gif
  「一点」から広がっていくインフレーションのイメージ       メビウスリング:同じところグルグルのイメージ
gif111111000_20140929192711851.gif
                瞬時に肥大し、瞬時に「点」へと収縮する物体のイメージ

そうですねぇ、ややこしい話がまた出てくるんですが..............

永遠の時間(アイオーン)とは、「時間」が「無限」に続く世界です。
しかし、「無限」であり続けるためには「永遠不変」でなければ不可能でしょう。

「永遠不変」であるということは、年月を重ねていく、成長老化がある、
「時間」が一直線に「流れて」いてはいけないのです。

そうなるとイメージとして思い浮かぶのが、

「時間」が「リング状」もしくは「球状」になって同じところをグルグルって感じですか?

同じところを「永遠」に回るメリーゴーランドのような「リング」の世界、
もしくは「球体」の世界であれば、「時間」は行って戻ってくるだけ。

赤ちゃん→ガキ→若造→オッサン→ジジババ→オッサン→若造→ガキ→赤ちゃん

この繰り返し。

「球体」というと、宇宙にある惑星を思い浮べます。
惑星というものは、周囲の星々と連携し、互いに重力バランスを保っていなければ、
自身の持つ「重力」によって押しつぶされてしまいます。
惑星の「終わり」とは、極限まで圧縮され、限りなく質量「0」に近づいていくことです。
広がりも、大きさも、量も、長さも存在しない世界、「点=0次元」に近づいくことです。

ここでパラドックス。
結局そこで「時間」は、ほとんど失われてしまうんです。
「時間」というものは、質量なしでは存在できません。
というより、記述できないのです。「1」としか表現できません。
しかも、この数学的理想とも言える「完全な点=0次元」は、この宇宙には決して存在しません。

しかし、かつてこの世に、
その「完全な
点=0次元」が存在したことが、たった一度だけあります。

それは、この宇宙が開始される、正にその瞬間の一点「ビックバン」です。
その「一点」には「時間」はもちろんありません。
しかし、これから始まる宇宙全ての「歴史=時間」が、ぎゅうぎゅう詰めになっているのです。
どういう状態なのか? そもそもこれを「状態」と言っていいのか? 想像もつきません。

しかし、この「放火」は彼にとって
金閣を「時間の果て=時間の始まり」へと追いやる、というイメージだったのでしょう。
金閣は、彼にとってはもう一つの「宇宙」だったのです。

金閣が「産声」を上げる正にその瞬間へと戻し、
別の「歴史=時間」を歩ませようとするかのように。


ホント「禅問答」みたいな話になっちゃいました(笑)





2014/09/17 公開 (まあ、興味のある人だけ読んで下さい)

「金閣寺」故三島由紀夫作
 
   時間の齟齬 心の齟齬
(上下記は、建築家・ジャン ヌーベル作・アラブ世界研究所・パリ・1987年)

 総じて私の体験には一種の暗号がはたらき、
   鏡の廊下のように1つの影像は無限の奥まで続いていた。
 新たに出会う事物にも過去に見た事物の影がはっきりと射し、こうした相似にみちびかれて、
 しらずしらず廊下の奥、底知れぬ奥の間へ、踏み込んで行くような心地がしていた。


 中略

 従って、私の体験には、積み重ねというものがなかった。
 積み重ねて地層をなし、山の形を作るような厚みがなかった。
 金閣を除いて、あらゆる事物に親しみを持たない私は、
 自分の体験にたいしても格別の親しみを抱いていなかった。
 ただそれらの体験のうちから、暗い時間の海に呑み込まれてしまわぬ部分、
 無意味のはてしれぬ繰り返しに陥没してしまわぬ部分、
 そういう小部分の連鎖から成る或る忌まわしい不吉な絵が、形づくられつつあるのがわかった。

 すると一つ一つの小部分とは何だろう。
 時折私はそれを考えた。
 しかしそれらの光っているばらばらな断片は、道ばたの光るビール瓶の破片よりも、
 もっと意味を欠き、法則性を欠いていたのである。

 といって、これら断片を過去にかつて形作られていた美しい完全な形姿の、
 落ち崩れた断片だと考えることはできなきなかった。 
 それらは無意味のうちに、法則性の完全な欠如のもとに、世にもぶざまな姿で打ち捨てられながら、
 おのがじし未来を夢見ているように見えたからだ。
 破片の分際で、おそれげもなく、無意味に、沈静に................

dsc_6715.jpg


鏡の廊下、その心象風景、折れた時間についての考察
別名:読んだことある奴じゃなきゃ、ぜってーわかんねー話


この作品の主人公には、「吃り(どもり)」というコンプレックスがあります。
話す時に最初の「音」が上手くだせないんですね。
主人公は、少年時代からこの「吃り」のせいで人間関係が上手く作れず、
己の心の中で独自の世界を築き上げて生きてきました。
そして現実の「外」の世界と、この己の「内」なる世界は、
彼の中でいつも上手く歯車が噛み合ず「齟齬=ズレ」をきたしていました。

彼にとって、現実とは、常に「速い」世界なのです。彼はいつもそこへ追いつけないんです。
この「吃り」せいで、「吃り」を恐れるあまり、最初の言葉を発する事をためらうんです。
たとえ、勇気を振り絞って言葉を発し、「周囲」の人達の会話に参加できたとしても、
この「吃り」が周囲の「空気」を一変させ、一瞬の「間」を生み出してしまう。

みなさんにも経験ないですか? 
変なタイミングで発言をしてしまって、場の「空気」を一瞬凍らせてしまうような事が。
この主人公は、いつもそんな体験をしてるんです。
常にその現象が起こる恐怖に苛まれているんです。

言い換えれば「現実」に追いついたと思っても、そこで彼を待っているのは、
もう新鮮な「現実」ではなく、変色しズレてしまった、凍り付いてしまった「現実」なんです
この「吃り」が障害となって、常に現実世界(社会)への「コミット」を阻みます。
わかりやすく端的に言うと、「ワンテンポ遅い奴」

そして、そんな普通の人とは「違う現実」を体験する彼は、
己の中に独自の時間の流れを作り出していきます。
つまり、内向的な人間が陥りやすい自閉症という奴です。

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人間の頭ん中、思考の世界には、時計で計測できるような、「一定」の時間が流れていません。
それは、現実世界の時計より速かったり遅かったりする「不定」の時間です。

しかしこれが、重度の精神的な障害となると、人によっては、
いつまでも「過去=昔」の中を彷徨っていたり、
自分で勝手に作った未来へ飛んで行ってしまったりするのではないでしょうか?

「不思議の国のアリス」に出てくる「帽子屋」は、いわば「狂っている」と言われるキャラです。
しかし厳密に言うと、「狂っている」訳ではないんです。
確か、頭のデッカい「赤の女王」の怒りを買って、彼の意識は「未来」と「過去」の両方向へ、
飛ばされてしまった、なんて話を記憶しています。
つまり、意識自体が「今現在」に「いない」ため、まともな反応や態度を取らないので、
周囲の人からは、彼が「狂っているように見える」だけなんです。

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まあこいつは、お伽の国の世界の極端な例ですが、
この「金閣寺」に登場する主人公も、これに似ていると思うんです。

「今現在」という「トレンドな時間」に、上手く乗っていくことができない彼は、
そういった意味で「普通の時間」を、生きることができない人です。

おそらく彼は、現実よりも「遅い」時間に生きているのでしょう。
思考が現実のスピードに追いつかないのか、
それとも思考する時間が長いから現実に置いて行かれてしまうのか?
だからいつも現実世界の「速い」時間との間に、
「ズレ」のようなモノが生じていたのではないでしょうか? 

彼が思考を巡らせて、現実を認識しようとしている間に、
目の前のある「現実」はどんどん進んで変化していきます。
現実は決して彼を待っていてはくれません。

彼は、そんな「速い」現実世界を目の当たりにしながら、
心の中の「遅い」世界=少し前に体験した現実=「ちょっと前の過去」の「認識」が、
「今現在」の「映像」に、重なるように見えていたのではないか? そんなふうに私は思います。

DSC06674_convert_20090630084516.jpg

両者は、彼の心の中で、ちょうど鏡合わせのように向かい合って、お互いを「写しあって」います。
しかし、この「ちょっと前の過去」と「今現在」というカップルは、
「似た者同士」ではあるんですが、少し違うんです。

この「ちょっと前の過去」とは、
彼にとって「新鮮さを欠いたズレて変色してしまった、凍りついてしまった現実」のことです。

両者は、たとえ鏡合わせのように、向かい合っていたとしても、
寸分違わぬ完全なる「コピー」ではないので、
互いの姿形を「照合」すると、必ず「ズレ」が生じてきます。

この「ズレ」が、彼の心の中にも一種の「ズレ=齟齬」を生み出してしまう要因となるのでしょう。
「底知れぬ奥の間へと突き進んでいくような無限の廊下」という彼の中の「心象風景」は、
このようにして出来上がったのではないか? そんなふうに私は考えます。

時間というものを過去→現在→未来という順番の、一本の「直線」だと考えましょう。
実際の時間がこのように流れているかどうかはわかりませんが、
これが一番わかりやすい例えでしょう。

しかし、「今現在」といものを「リアルタイム」で体験する事のできない主人公にとって、
「ちょっと前の過去」が重なって見えてしまう主人公にとって、
この時間の流れは、果たして一本の美しい「直線」を描いていたでしょうか?

おそらくですねぇ、その「直線」は、
彼の心のイメージでは、過去、現在、未来という、
その「節目節目」で、「折れ曲がっていた」のではないでしょうか?

13713739370077.jpg 

もしくは、
その節目節目で、ポッキリと折れてしまっていた、みたいな感じでしょうか?
そして過去の一部、現在の一部、未来の一部が、                
互いに重なり合っていたのではないでしょうか(「南京たますだれ」みたいな感じ)?  

そうなると彼には、その「直線的」な時間の連続性というものがなかったと思うんです。
「線自体」が、ぶった切られてしまっているからです。

時間の線

「私の体験には、積み重ねというものがなかった」という記述は、
正に、その彼独自の「感覚」を表現しています。

そして、バラバラにされ、連続性なるものを失くしてしまって、
心の中に置き去りにされたその時間の断片は、彼の中でだんだん無意味なモノと化していきます。

かつては、現実世界のリアルな時間と繋がっていた「時間に断片」は、
正に道端に落ちているビール瓶の「かけら」のように、いや「かけら」以上に、
全く無意味な、「ただの破片」となっていきます。

しかし、彼にはその無意味な「がらくた」が、まるで未来を夢見ているように、
つまり「またリアルな時間と仲良くなれるんだ」なんていう夢を見ているように思えてくるんです。

ここで、彼の心情にパラドックス(反転)が起こっています。
それは、かつて現実の時間の「どれか」であった、彼の心の中にあるその「時間の破片」を、
時間との繋がりなんてもんは、はじめからなかった、ただの「かけら」であると見ているということ。
もっと厳密に言うなら、まさしく、ただの単一な「モノ」ではないかと「見下している」とこです。

彼は己の心の中に、客観的なもう一人の自分を作り出し、まるで映画でも眺めるように、
現実の「外界」と心の「内界」を俯瞰(神の視点)で眺めています。

それは、この「吃り」から生まれた独自の視点であり、強い劣等感と欠落感を持つ者だけに備わる、
一種の天才的な「センス」ではないか? そのように私は考えます(「山下清」のように)

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2014/09/08 公開

「金閣寺」故 三島由紀夫 作
   生け花に関する記述(画像は映画「利休にたずねよ」から抜粋。まあイメージです)

 彼の手の動きは見事という他はなかった。
 小さな決断次々下され、対比や均整の効果が的確に集中してゆき、
 自然の植物一定の旋律のもとに、見るも鮮やかに人口の秩序の内へ移された。
 あるがままの花や葉は、たちまちあるべき花や葉に変貌し、
 その木賊(トクサ)や杜若(カキツバタ)は、同種の植物の無名の一株一株ではなくなって、
 木賊の本質、杜若の本質ともいうべきものの、簡潔きわまる直叙的なあらわれになった。

 
   中略
   
 観水活けの盛花は
でき
あがった。
 水盤の右端に、
木賊の直線杜若の葉の潔い曲線が交わり、
 花のひとつ花咲き他の二つはほぐれかけた蕾(つぼみ)であった。
 それが小さな床の間にほとんど一杯に置かれると、水盤の水の投影は静まり、
 剣山を隠した玉砂利は、いかにも明澄な水際の風情を示した。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

特に、印象に残った言葉を赤字で記します。

青字は「対称形」となっている言葉です。
こうやって分解して考えるのも、テクストの「立体感」を掴む方法の1つです。


自然の植物(あるがまま):人口の秩序(あるべき)
• 木賊(直線):杜若(曲線)
• 花のひとつ:他の二つ
• 花咲き:蕾(つぼみ)

さらに細かく分解して、別の「カップル」を考えると、

• あるがまま:曲線
• あるべき:直線  という対応関係もできます。

今後も、他の箇所から抜粋して、ちょくちょく付け足していきます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

この話は、文体こそ流麗華麗なんですが、
主人公の内面世界だけを偏執的に描いた、非常に暗〜いお話です。

しかも、ハイデガーだの、サルトルだの、実存主義だの、思想家が幅を効かせた時代。
三島さんもそんな風潮の中を生きてきた、いわば、文学思想家、政治思想家の一人です。

特に観念世界(頭ん中の理想の世界)を「純化」することに熱を入れていたお人。

今みたいに、パソコンのような情報検索ツールはないですから、
新聞や雑誌、書籍、ラジオ、そしてなんとか普及し初めたTV等のわずかな情報からしか、
「世界」を知る事ができなかった時代を生きてきた人です。


つまり、そこから得られる少ない情報から、最大限に想像力を脹らませるしかなかったんですよ。
だから、世界で起こっている現実と、あまりにも乖離して
(かけ離れて)しまうような、
極めてピュアな「妄想」の世界に突っ込んでいくしか、己を支える方法がなかったんです。
我々現代人とは、使ってる脳みその量がまったく違うんです。
必死こいて考えて生きてたんだと思いますよ。

(我々の生きてる時代は「考えなくても」生きていける時代です)

そこに、
「左=赤
(共産社会主義思想=無政府主義、国家否定論者)」の連中まで絡んでくるから、
より一層表現がややこしくなるんです。

(ちなみに三島さんは、純ナショナリスト=国粋主義者、つまり「右」の人です)

こいつを一回読んだだけで、理解するなんてとても無理です。
何回も何回も、わかるまで読むしかありません。

言葉1個1個を丹念に追跡し、文法を整理してみて下さい。
そして、文に描かれた情景を頭の中でイメージしてやると、理解が早くなるでしょう。
そして、また文を追って、頭の中でイメージ。
こういう作業の繰り返しによって、
イメージの輪郭が連結され、「立体的」な文章が形造られていきます。

メモしながらやるといいです。
わからないこと、整理できないことをメモしていくわけだから、
それを書いてるうちに、頭の中に入って自然と覚えちゃうんです。
自分で考えて作ったメモっていうのは、
そういう意味で、本や書類をただ読むことよりもずっと価値があると思います。


※ まず「何がわからないか?」「どこが、どの部分がわからないか?」
 といったことを整理するところから始めましょう。
「わからない」と言っている人の大半が、
「わからないところがわからない」という人なんです。
 こいつを整理できれば、3分の2は理解したようなもんです。
 そしてさらに、もうちょっと突っ込んだような疑問点が出てきた場合にも、
 この自分で作った「メモ」は、大いに役立つでしょう。
 三島さんもこういう「メモ」や「ノート」をたくさん作ってました。
 彼は東大の法学部出身で、文章やテクストを論理的に整頓していく作業に長けていました。
 故に、我々が普段聞き慣れないような難しい単語なんかを目にしても、
 彼の作品は、常に論理的な整合性を持って構築され、整頓された文章であったために、
 比較的読みやすくできていたんだと思います。


描いて整理することは「頭の悪い」証拠、なんて思っちゃ絶対にいけません。
本当に賢い人間ほど、自分の「ノート」というものを持っています。

そうですねぇ、英語を勉強するといいでしょう。
何も喋れるようになったり、単語を暗記したりする必要はありません。
ただ、文の構造だけ理解すればいいんです。
普段使い慣れない言葉を相手にした場合、母国後を話す時のような「感覚」ではなく、
パズルを解くような、論理的な「理性」をもって対応しなくちゃいけません。
こういうのを繰り返してると、難解な文体でも、いつの間にか読めるようになるもんです。

そして、
自分で文章書く場合は、まず主語、述語をはっきりさせて、そいつを箇条書きにします。
目的となる語は後から付け足して、最終的に並べ替えりゃいいんです。

英語の基本文法は、主語→述語→目的語。
日本語は、主語→目的語→述語、たったこれだけの違いです。

そして、
できあがった箇条書きの単純な「文」は、後から修飾(飾り付け)します。
頭の中で思い描いたイメージを言葉に変えて、その「文」に付け加えていくと、
「文体」の「輪郭」が浮び上がってきます。

今度は、それらを互いに繋ぎ合わせていくと「テクスト」に「立体感」が生まれてきます。
あとは、余計な部分を削ったり、足りない部分を付け足したりして仕上げ。

多分、実際に文章(それも物語性のある長文)を自分で書いてみないと、
これは、中々掴みにくい「感覚」だと思います。


※ あと、「法文法」なんか勉強するのもいいですね。
   あんな論理的で「読みにくい」もんはありません。
   あれが読めりゃ、大概なんでも読めます。
   哲学書なんかに挑戦すんのも面白いんですが、
   筆者が言葉遊びやってるだけの、中身空っぽの奴とかあったります。
「難解」ということは、それだけ「文章力がない」ということでもあるんです。


別に小難しいことなんか言わなくていいですから、
感じたままの素直な感想をコメントしてみて下さい。
(逆に私のほうが困っちゃいますな♡)


Category : お勉強の時間
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094 お勉強の時間 ① 〜 三島由紀夫 「金閣寺」 〜

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2014/09/28

鳳凰の記述 〜 時間を飛ぶ翼 〜

私はまた、その屋根の頂きに、永い歳月を風雨にさらされてきた金銅の鳳凰を思った。
この神秘的な金色の鳥は、時もつくらず、羽ばたきもせず、
自分が鳥であることを忘れているに違いなかった。
しかし、それが飛ばないように見えるのはまちがいだ。
ほかの鳥が空間を飛ぶのに、この金の鳳凰はかがやく翼をあげて、
永遠に、時間の中を飛んでいるのだ。
時間がその翼を打つ。翼を打って後方に流れていく。
飛んでいるためには、鳳凰はただ不動の姿で、眼を怒らせ、翼を高くかかげ、
屋羽根をひるがえし、いかめしい金色の双の脚を、
しっかと踏んばっていればよかったのだ。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

※ 掲載された画像、gif 画はネット上にあったモノをこちらで改造
   もしくはそのまま掲載しております
 ただし、最下部の建築プロジェクトの画像には、加工は加えておりません。


色彩が持つイメージってのは結構大事です(「金鳥」のCMをイメージしないように♡)
青を凍った冷たいイメージ。赤は燃え上がる熱いイメージ。

次元というのものには、必ず「時間」という概念(性質)がくっついてきます。
それがないのは0次元だけ。
点です。点には単位がありません。
長さも広がりもありません。大きさも量もありません。
進むべき「方向」もありません。
よって、常に「動く」性質を持った「時間」というものは、生きる余地が全くないのです。
つまりこの次元に「時間」は存在しません。

次元というものを順番にまとめてみましょう。
 
点  ー0次元 ー 単位なし  Xの0乗です。 Xにどんな値を代入しても同じ。ただの「1」
線  ー1次元 ー 単位はm    Xの1乗です。 Xに代入される値によって「長さ」がきまります。
面  ー2次元 ー 単位は㎡    Xの2乗です。   Xに代入される値によって「面積」がきまります。
立体 ー3次元 ー 単位は㎥    Xの3乗です。 Xに代入される値によって「体積」がきまります。

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  座標に浮遊する「点」「線」的に繋がり、「面」を形成し、やがて「立体」となっていく、「時間」の表現をイメージ

では「時間」は? どのように表すんでしょう?

「時間」というものには、質量がありません。
だから物理学の世界では、「t」という記号をつかって、「s」という単位を使って、
その他の次元と同じ「物理量」に置き換えて計算します。

しかし、
この「時間」という奴は、
完全に質量を持たない世界0次元(「点」の世界)以外の次元には必ず存在します。
質量を持たない「時間」は「質量」のある世界でしか生きられません。
なぜなら、質量の「変化そのもの」こそ「時間」の正体であり、
「時間」を記述する唯一の方法です。

「線」が伸びていく(短くなっていく)その「過程」こそ「時間」です。
「面」が広がっていく(狭くなっていく)その「過程」こそ「時間」です。
「立体」が変形していくその「過程」こそ「時間」です。

しかし、この「時間」というモノを、各次元から切り離し取り去ってしまうと、
そこには、完全に静止凍結した純粋理想的な「形」だけが残ります。

※ この世に「完全」な点、線、面、立体は存在しません。
 鉛筆で紙に黒い点を打ったとしましょう。
 それは、普通に眺めれば「点」に見えるでしょうが、
 虫眼鏡で拡大して見れば、広がりのある「面」に見えます。
 電子顕微鏡でさらに拡大して見れば、降り積もった鉛筆の粉が見えます。
 つまり「厚み」を持った「立体」です。
 さらに言うなら、この粉は時間が経過すれば、風化摩耗してその体積を現象させてしまいます。
 我々がどんなに正確で精度の高い何らかの技術を用いても
「完全」なる点、線、面、立体を造りだす事は不可能なんです(コンピュータの仮想世界を覗いて)
 その現実には存在しない「完全」なる点、線、面、立体、はては三角形や立方体なんかの事を
 プラトンは「イデア」と言いました。(「ティマイオス」参照)


   この静止凍結した純粋な「形(イデア)」にという色を。
   そして、この「形」に息を吹き込み、
   内燃機関のような熱い「動力」を与える「時間」にという色を。
   青の鳳凰は空間を飛び赤の鳳凰は時間を飛ぶ(gif 画は少し時間を「だぶらせた」イメージに改造)


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青の鳳凰                    赤の鳳凰

この宇宙では、両者が分離することは決してありません。
分離した瞬間に、開闢以来のインフレーション(広がり)がストップし、
宇宙は凍りついてしまうからです。

しかし、この主人公は、
この金閣に鎮座する鳳凰は、
作り物の動かない鳥であるからこそ、
逆に「時間」を「永遠」に「飛ぶ=渡る」ことができるのだ、
という逆説的な表現をしています。
いや、「感覚」を抱いているといったほうがいいかもしれません。

これは「禅問答」みたいな話ですが、
上記の話を踏まえて、思いつく限りのことを箇条書きにして推移をまとめてみました。

それは観念上(あくまで人間の頭の中のイメージにおいて)

・  初めから「時間」を与えられなかった「鳥」であるから(成長しない)

・  時間から引き離された「鳥」であるから(年をとらない)

・  永遠の「形」を与えられた「鳥」であるから(永久に変化しない)
     ↓
       純粋な「立体=形」となる。
         ↓
・「夢=イデア=理想形」の「鳥」であるから(現実には存在しない夢の鳥)
             ↓  
                                              究極形態を目指して
                 ↓
・「死なない鳥=不死鳥」であるから(生命の理想「不老不死」)

universe-architecture-3d-printed-house-1.jpg universe-architecture-3d-printed-house-3.jpg universe-architecture-3d-printed-house-2.jpg
  メビウス:空間・時間の反転、逆説(パラドックス)のイメージ(Janjaap Ruijssenaars作 3Dプリンタにて作成) 

これは、主人公の内面世界を偏執的に描いた物語。

あんな作り物の鳥から、よくもまあ、これだけの想像を脹らませたもんだなあ〜
そんな事言ったら、ユネスコの世界遺産とか全部そうじゃん! 
というのが私の第一の感想です(笑)

しかし、
この主人公には下記(
2014/09/17 公開 「時間の齟齬 心の齟齬」)に記しましたように、
「吃り」というコンプレックスがあります。

※ 彼は、通常の時間の流れを一直線に生きる事ができない人です。
   常にこの「吃り」が邪魔をするため、
   通常の人よりワンテンポ遅れた動作、通常の人より遅れた体験しかできない人です。
   いわば、体験そのものが「吃って」しまっているのです。


現実の金閣寺(鹿苑寺)は、(私も修学旅行の時に見ましたが)それほど美しくありません。
主人公も現実の金閣寺を見て、「ただの古い寺」という印象しか抱きませんでした。

彼は、その「吃り」というコンプレックから生み出した、独特のセンス(感覚)によって、
極度に洗練された姿、彼だけの別の「金閣寺」を描き出しました。

それは、幼い頃から父親に聞かされ続けた金閣寺(鹿苑寺)の話と、
己の頭の中で思い描いた「金閣寺」を混ぜ合わせて育て上げてきた「イメージ群」の「集積」です。

実はこの話、最終的に主人公は、金閣寺に火を放って燃やしてしまうんですが、
これは現実にあった事件なんだそうです。
三島さんはこの事件をモデルにして、この話を書いたとか。

現実の事件を起こした本人が、このような鬱屈した内面を持っていたかはわかりませんが、
彼が幼い頃から築き上げてきた、決して人には理解されないその独特な美意識では、
この金閣寺(鹿苑寺)を燃やす=この世から消し去ってしまう必要があったのでしょう。

それは、
目の前にある「ただの古い寺」をこの世から、
つまり現実の時間(クロノス)から葬り去り切り離すことで、
その名にふさわしい、彼が思い描いてきた彼だけの「金閣寺」を誕生させようとしたのです。
彼は、金閣寺を永遠の時間(アイオーン)へと追いやりました。

この辺りの話は、三島ファンの方には「知ってるよ」なんて言われそうですね(笑)

f6fd7141.gif 2d3c2bd9.gif 
一点」から紡ぎ出される数々の宇宙のイメージ                   球:同じところをグルグルのイメージ
012.gif M1SDVLc.gif
  「一点」から広がっていくインフレーションのイメージ       メビウスリング:同じところグルグルのイメージ
gif111111000_20140929192711851.gif
                瞬時に肥大し、瞬時に「点」へと収縮する物体のイメージ

そうですねぇ、ややこしい話がまた出てくるんですが..............

永遠の時間(アイオーン)とは、「時間」が「無限」に続く世界です。
しかし、「無限」であり続けるためには「永遠不変」でなければ不可能でしょう。

「永遠不変」であるということは、年月を重ねていく、成長老化がある、
「時間」が一直線に「流れて」いてはいけないのです。

そうなるとイメージとして思い浮かぶのが、

「時間」が「リング状」もしくは「球状」になって同じところをグルグルって感じですか?

同じところを「永遠」に回るメリーゴーランドのような「リング」の世界、
もしくは「球体」の世界であれば、「時間」は行って戻ってくるだけ。

赤ちゃん→ガキ→若造→オッサン→ジジババ→オッサン→若造→ガキ→赤ちゃん

この繰り返し。

「球体」というと、宇宙にある惑星を思い浮べます。
惑星というものは、周囲の星々と連携し、互いに重力バランスを保っていなければ、
自身の持つ「重力」によって押しつぶされてしまいます。
惑星の「終わり」とは、極限まで圧縮され、限りなく質量「0」に近づいていくことです。
広がりも、大きさも、量も、長さも存在しない世界、「点=0次元」に近づいくことです。

ここでパラドックス。
結局そこで「時間」は、ほとんど失われてしまうんです。
「時間」というものは、質量なしでは存在できません。
というより、記述できないのです。「1」としか表現できません。
しかも、この数学的理想とも言える「完全な点=0次元」は、この宇宙には決して存在しません。

しかし、かつてこの世に、
その「完全な
点=0次元」が存在したことが、たった一度だけあります。

それは、この宇宙が開始される、正にその瞬間の一点「ビックバン」です。
その「一点」には「時間」はもちろんありません。
しかし、これから始まる宇宙全ての「歴史=時間」が、ぎゅうぎゅう詰めになっているのです。
どういう状態なのか? そもそもこれを「状態」と言っていいのか? 想像もつきません。

しかし、この「放火」は彼にとって
金閣を「時間の果て=時間の始まり」へと追いやる、というイメージだったのでしょう。
金閣は、彼にとってはもう一つの「宇宙」だったのです。

金閣が「産声」を上げる正にその瞬間へと戻し、
別の「歴史=時間」を歩ませようとするかのように。


ホント「禅問答」みたいな話になっちゃいました(笑)





2014/09/17 公開 (まあ、興味のある人だけ読んで下さい)

「金閣寺」故三島由紀夫作
 
   時間の齟齬 心の齟齬
(上下記は、建築家・ジャン ヌーベル作・アラブ世界研究所・パリ・1987年)

 総じて私の体験には一種の暗号がはたらき、
   鏡の廊下のように1つの影像は無限の奥まで続いていた。
 新たに出会う事物にも過去に見た事物の影がはっきりと射し、こうした相似にみちびかれて、
 しらずしらず廊下の奥、底知れぬ奥の間へ、踏み込んで行くような心地がしていた。


 中略

 従って、私の体験には、積み重ねというものがなかった。
 積み重ねて地層をなし、山の形を作るような厚みがなかった。
 金閣を除いて、あらゆる事物に親しみを持たない私は、
 自分の体験にたいしても格別の親しみを抱いていなかった。
 ただそれらの体験のうちから、暗い時間の海に呑み込まれてしまわぬ部分、
 無意味のはてしれぬ繰り返しに陥没してしまわぬ部分、
 そういう小部分の連鎖から成る或る忌まわしい不吉な絵が、形づくられつつあるのがわかった。

 すると一つ一つの小部分とは何だろう。
 時折私はそれを考えた。
 しかしそれらの光っているばらばらな断片は、道ばたの光るビール瓶の破片よりも、
 もっと意味を欠き、法則性を欠いていたのである。

 といって、これら断片を過去にかつて形作られていた美しい完全な形姿の、
 落ち崩れた断片だと考えることはできなきなかった。 
 それらは無意味のうちに、法則性の完全な欠如のもとに、世にもぶざまな姿で打ち捨てられながら、
 おのがじし未来を夢見ているように見えたからだ。
 破片の分際で、おそれげもなく、無意味に、沈静に................

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鏡の廊下、その心象風景、折れた時間についての考察
別名:読んだことある奴じゃなきゃ、ぜってーわかんねー話


この作品の主人公には、「吃り(どもり)」というコンプレックスがあります。
話す時に最初の「音」が上手くだせないんですね。
主人公は、少年時代からこの「吃り」のせいで人間関係が上手く作れず、
己の心の中で独自の世界を築き上げて生きてきました。
そして現実の「外」の世界と、この己の「内」なる世界は、
彼の中でいつも上手く歯車が噛み合ず「齟齬=ズレ」をきたしていました。

彼にとって、現実とは、常に「速い」世界なのです。彼はいつもそこへ追いつけないんです。
この「吃り」せいで、「吃り」を恐れるあまり、最初の言葉を発する事をためらうんです。
たとえ、勇気を振り絞って言葉を発し、「周囲」の人達の会話に参加できたとしても、
この「吃り」が周囲の「空気」を一変させ、一瞬の「間」を生み出してしまう。

みなさんにも経験ないですか? 
変なタイミングで発言をしてしまって、場の「空気」を一瞬凍らせてしまうような事が。
この主人公は、いつもそんな体験をしてるんです。
常にその現象が起こる恐怖に苛まれているんです。

言い換えれば「現実」に追いついたと思っても、そこで彼を待っているのは、
もう新鮮な「現実」ではなく、変色しズレてしまった、凍り付いてしまった「現実」なんです
この「吃り」が障害となって、常に現実世界(社会)への「コミット」を阻みます。
わかりやすく端的に言うと、「ワンテンポ遅い奴」

そして、そんな普通の人とは「違う現実」を体験する彼は、
己の中に独自の時間の流れを作り出していきます。
つまり、内向的な人間が陥りやすい自閉症という奴です。

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人間の頭ん中、思考の世界には、時計で計測できるような、「一定」の時間が流れていません。
それは、現実世界の時計より速かったり遅かったりする「不定」の時間です。

しかしこれが、重度の精神的な障害となると、人によっては、
いつまでも「過去=昔」の中を彷徨っていたり、
自分で勝手に作った未来へ飛んで行ってしまったりするのではないでしょうか?

「不思議の国のアリス」に出てくる「帽子屋」は、いわば「狂っている」と言われるキャラです。
しかし厳密に言うと、「狂っている」訳ではないんです。
確か、頭のデッカい「赤の女王」の怒りを買って、彼の意識は「未来」と「過去」の両方向へ、
飛ばされてしまった、なんて話を記憶しています。
つまり、意識自体が「今現在」に「いない」ため、まともな反応や態度を取らないので、
周囲の人からは、彼が「狂っているように見える」だけなんです。

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まあこいつは、お伽の国の世界の極端な例ですが、
この「金閣寺」に登場する主人公も、これに似ていると思うんです。

「今現在」という「トレンドな時間」に、上手く乗っていくことができない彼は、
そういった意味で「普通の時間」を、生きることができない人です。

おそらく彼は、現実よりも「遅い」時間に生きているのでしょう。
思考が現実のスピードに追いつかないのか、
それとも思考する時間が長いから現実に置いて行かれてしまうのか?
だからいつも現実世界の「速い」時間との間に、
「ズレ」のようなモノが生じていたのではないでしょうか? 

彼が思考を巡らせて、現実を認識しようとしている間に、
目の前のある「現実」はどんどん進んで変化していきます。
現実は決して彼を待っていてはくれません。

彼は、そんな「速い」現実世界を目の当たりにしながら、
心の中の「遅い」世界=少し前に体験した現実=「ちょっと前の過去」の「認識」が、
「今現在」の「映像」に、重なるように見えていたのではないか? そんなふうに私は思います。

DSC06674_convert_20090630084516.jpg

両者は、彼の心の中で、ちょうど鏡合わせのように向かい合って、お互いを「写しあって」います。
しかし、この「ちょっと前の過去」と「今現在」というカップルは、
「似た者同士」ではあるんですが、少し違うんです。

この「ちょっと前の過去」とは、
彼にとって「新鮮さを欠いたズレて変色してしまった、凍りついてしまった現実」のことです。

両者は、たとえ鏡合わせのように、向かい合っていたとしても、
寸分違わぬ完全なる「コピー」ではないので、
互いの姿形を「照合」すると、必ず「ズレ」が生じてきます。

この「ズレ」が、彼の心の中にも一種の「ズレ=齟齬」を生み出してしまう要因となるのでしょう。
「底知れぬ奥の間へと突き進んでいくような無限の廊下」という彼の中の「心象風景」は、
このようにして出来上がったのではないか? そんなふうに私は考えます。

時間というものを過去→現在→未来という順番の、一本の「直線」だと考えましょう。
実際の時間がこのように流れているかどうかはわかりませんが、
これが一番わかりやすい例えでしょう。

しかし、「今現在」といものを「リアルタイム」で体験する事のできない主人公にとって、
「ちょっと前の過去」が重なって見えてしまう主人公にとって、
この時間の流れは、果たして一本の美しい「直線」を描いていたでしょうか?

おそらくですねぇ、その「直線」は、
彼の心のイメージでは、過去、現在、未来という、
その「節目節目」で、「折れ曲がっていた」のではないでしょうか?

13713739370077.jpg 

もしくは、
その節目節目で、ポッキリと折れてしまっていた、みたいな感じでしょうか?
そして過去の一部、現在の一部、未来の一部が、                
互いに重なり合っていたのではないでしょうか(「南京たますだれ」みたいな感じ)?  

そうなると彼には、その「直線的」な時間の連続性というものがなかったと思うんです。
「線自体」が、ぶった切られてしまっているからです。

時間の線

「私の体験には、積み重ねというものがなかった」という記述は、
正に、その彼独自の「感覚」を表現しています。

そして、バラバラにされ、連続性なるものを失くしてしまって、
心の中に置き去りにされたその時間の断片は、彼の中でだんだん無意味なモノと化していきます。

かつては、現実世界のリアルな時間と繋がっていた「時間に断片」は、
正に道端に落ちているビール瓶の「かけら」のように、いや「かけら」以上に、
全く無意味な、「ただの破片」となっていきます。

しかし、彼にはその無意味な「がらくた」が、まるで未来を夢見ているように、
つまり「またリアルな時間と仲良くなれるんだ」なんていう夢を見ているように思えてくるんです。

ここで、彼の心情にパラドックス(反転)が起こっています。
それは、かつて現実の時間の「どれか」であった、彼の心の中にあるその「時間の破片」を、
時間との繋がりなんてもんは、はじめからなかった、ただの「かけら」であると見ているということ。
もっと厳密に言うなら、まさしく、ただの単一な「モノ」ではないかと「見下している」とこです。

彼は己の心の中に、客観的なもう一人の自分を作り出し、まるで映画でも眺めるように、
現実の「外界」と心の「内界」を俯瞰(神の視点)で眺めています。

それは、この「吃り」から生まれた独自の視点であり、強い劣等感と欠落感を持つ者だけに備わる、
一種の天才的な「センス」ではないか? そのように私は考えます(「山下清」のように)

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2014/09/08 公開

「金閣寺」故 三島由紀夫 作
   生け花に関する記述(画像は映画「利休にたずねよ」から抜粋。まあイメージです)

 彼の手の動きは見事という他はなかった。
 小さな決断次々下され、対比や均整の効果が的確に集中してゆき、
 自然の植物一定の旋律のもとに、見るも鮮やかに人口の秩序の内へ移された。
 あるがままの花や葉は、たちまちあるべき花や葉に変貌し、
 その木賊(トクサ)や杜若(カキツバタ)は、同種の植物の無名の一株一株ではなくなって、
 木賊の本質、杜若の本質ともいうべきものの、簡潔きわまる直叙的なあらわれになった。

 
   中略
   
 観水活けの盛花は
でき
あがった。
 水盤の右端に、
木賊の直線杜若の葉の潔い曲線が交わり、
 花のひとつ花咲き他の二つはほぐれかけた蕾(つぼみ)であった。
 それが小さな床の間にほとんど一杯に置かれると、水盤の水の投影は静まり、
 剣山を隠した玉砂利は、いかにも明澄な水際の風情を示した。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

特に、印象に残った言葉を赤字で記します。

青字は「対称形」となっている言葉です。
こうやって分解して考えるのも、テクストの「立体感」を掴む方法の1つです。


自然の植物(あるがまま):人口の秩序(あるべき)
• 木賊(直線):杜若(曲線)
• 花のひとつ:他の二つ
• 花咲き:蕾(つぼみ)

さらに細かく分解して、別の「カップル」を考えると、

• あるがまま:曲線
• あるべき:直線  という対応関係もできます。

今後も、他の箇所から抜粋して、ちょくちょく付け足していきます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

この話は、文体こそ流麗華麗なんですが、
主人公の内面世界だけを偏執的に描いた、非常に暗〜いお話です。

しかも、ハイデガーだの、サルトルだの、実存主義だの、思想家が幅を効かせた時代。
三島さんもそんな風潮の中を生きてきた、いわば、文学思想家、政治思想家の一人です。

特に観念世界(頭ん中の理想の世界)を「純化」することに熱を入れていたお人。

今みたいに、パソコンのような情報検索ツールはないですから、
新聞や雑誌、書籍、ラジオ、そしてなんとか普及し初めたTV等のわずかな情報からしか、
「世界」を知る事ができなかった時代を生きてきた人です。


つまり、そこから得られる少ない情報から、最大限に想像力を脹らませるしかなかったんですよ。
だから、世界で起こっている現実と、あまりにも乖離して
(かけ離れて)しまうような、
極めてピュアな「妄想」の世界に突っ込んでいくしか、己を支える方法がなかったんです。
我々現代人とは、使ってる脳みその量がまったく違うんです。
必死こいて考えて生きてたんだと思いますよ。

(我々の生きてる時代は「考えなくても」生きていける時代です)

そこに、
「左=赤
(共産社会主義思想=無政府主義、国家否定論者)」の連中まで絡んでくるから、
より一層表現がややこしくなるんです。

(ちなみに三島さんは、純ナショナリスト=国粋主義者、つまり「右」の人です)

こいつを一回読んだだけで、理解するなんてとても無理です。
何回も何回も、わかるまで読むしかありません。

言葉1個1個を丹念に追跡し、文法を整理してみて下さい。
そして、文に描かれた情景を頭の中でイメージしてやると、理解が早くなるでしょう。
そして、また文を追って、頭の中でイメージ。
こういう作業の繰り返しによって、
イメージの輪郭が連結され、「立体的」な文章が形造られていきます。

メモしながらやるといいです。
わからないこと、整理できないことをメモしていくわけだから、
それを書いてるうちに、頭の中に入って自然と覚えちゃうんです。
自分で考えて作ったメモっていうのは、
そういう意味で、本や書類をただ読むことよりもずっと価値があると思います。


※ まず「何がわからないか?」「どこが、どの部分がわからないか?」
 といったことを整理するところから始めましょう。
「わからない」と言っている人の大半が、
「わからないところがわからない」という人なんです。
 こいつを整理できれば、3分の2は理解したようなもんです。
 そしてさらに、もうちょっと突っ込んだような疑問点が出てきた場合にも、
 この自分で作った「メモ」は、大いに役立つでしょう。
 三島さんもこういう「メモ」や「ノート」をたくさん作ってました。
 彼は東大の法学部出身で、文章やテクストを論理的に整頓していく作業に長けていました。
 故に、我々が普段聞き慣れないような難しい単語なんかを目にしても、
 彼の作品は、常に論理的な整合性を持って構築され、整頓された文章であったために、
 比較的読みやすくできていたんだと思います。


描いて整理することは「頭の悪い」証拠、なんて思っちゃ絶対にいけません。
本当に賢い人間ほど、自分の「ノート」というものを持っています。

そうですねぇ、英語を勉強するといいでしょう。
何も喋れるようになったり、単語を暗記したりする必要はありません。
ただ、文の構造だけ理解すればいいんです。
普段使い慣れない言葉を相手にした場合、母国後を話す時のような「感覚」ではなく、
パズルを解くような、論理的な「理性」をもって対応しなくちゃいけません。
こういうのを繰り返してると、難解な文体でも、いつの間にか読めるようになるもんです。

そして、
自分で文章書く場合は、まず主語、述語をはっきりさせて、そいつを箇条書きにします。
目的となる語は後から付け足して、最終的に並べ替えりゃいいんです。

英語の基本文法は、主語→述語→目的語。
日本語は、主語→目的語→述語、たったこれだけの違いです。

そして、
できあがった箇条書きの単純な「文」は、後から修飾(飾り付け)します。
頭の中で思い描いたイメージを言葉に変えて、その「文」に付け加えていくと、
「文体」の「輪郭」が浮び上がってきます。

今度は、それらを互いに繋ぎ合わせていくと「テクスト」に「立体感」が生まれてきます。
あとは、余計な部分を削ったり、足りない部分を付け足したりして仕上げ。

多分、実際に文章(それも物語性のある長文)を自分で書いてみないと、
これは、中々掴みにくい「感覚」だと思います。


※ あと、「法文法」なんか勉強するのもいいですね。
   あんな論理的で「読みにくい」もんはありません。
   あれが読めりゃ、大概なんでも読めます。
   哲学書なんかに挑戦すんのも面白いんですが、
   筆者が言葉遊びやってるだけの、中身空っぽの奴とかあったります。
「難解」ということは、それだけ「文章力がない」ということでもあるんです。


別に小難しいことなんか言わなくていいですから、
感じたままの素直な感想をコメントしてみて下さい。
(逆に私のほうが困っちゃいますな♡)


Category : お勉強の時間
Posted by グラオナ最高 on  | 0 comments

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